ノンビリ暮らそう

電脳硬化症気味な日記です。まとまった情報は wiki にあります。

1996.4.20 (Saturday)

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大人であれ!   [散文・小論]

 最近突然「大人になる」という事がどういうことなのか、何を意味するのか、わからなくなって困っている。
 「大人」を辞書で引くと「一人前に成長した人。また成人」と出ている。ちなみに「一人前」を引くと「2、成人」とあって、ますますわからなくなる。
 「世の中の道理をわきまえた人」=「分別のある人」が「大人」なのか。もしそうなら、世の中の「大人」は、思っていたよりも著しく少ないということになるだろう。
 世間で便宜的に使われる「大人」は、「成人」つまり「20歳以上の男女」という意味であろうが、僕が探求している「大人」は、それではない。

 例えば、理想を抱き、やみくもにその実現を信じて突き進める人は「子供」であり、理想を抱きつつも、その実現を信じられず、それでもなお悲愴に突き進もうとする人は「大人」なのではないか。あえて言うなら、前者は劉玄徳であり、後者は諸葛孔明ではないか。
 例えば、自身の才能に限りを感じることもなく、自由気ままにその才をふるう人は「子供」であり、ある時、自己の才能に限界を感じ、鬱屈しながら生きている人は「大人」ではないか。言うなら、前者はモーツァルトであり、後者はサリエリと言える。

 こう書いてきて、少しずつわかってきたような気がする。
 「大人」とは、「何か余計な事を知ってしまった人」なのではないか。
 「不幸にして、何かに気付いてしまった人」なのではないか。

 青年期には自己啓発の時期があるといわれるが、この時期に自己を見出してしまったものこそが、「大人」なのではないか。もしそうなら、「大人」になるということは、とても悲しむべきことに他ならない。
 「子供」でい続ける人達は、青年期をあまりに突っ走り過ぎたために、周りを見ることをしなかったのだろう。それで、自己と周りを比較することもなく、必然、自我に目覚めることなく、その時期を走り過ぎていけるのではないか。

 「何かをクリエイトするときには、情報に対して禁欲的でないといけない」と、坂本龍一さんが言っていた。周りを見てしまうと、何も出来なくなるのだろうか。


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